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鳥羽離宮について
平安末期,朱雀大路から伸びた鳥羽の作道の南端に, 東西約1.7㎞, 南北約1.2㎞の, わが国最大規模の広大な鳥羽離宮を白河天皇がお築きになりました。
白河天皇(祖父)・鳥羽天皇(孫)・近衛天皇(次男)の三つの天皇陵近くに,不動堂が描かれております。
秋の山は、国道1号線の西の鳥羽離宮公園内に今も存在しています。城南宮さんの現住所は、当時の地形を元に中島鳥羽離宮町となっています。中島を取り巻く広大な池は、人工の池だとされています。
幕末、鳥羽伏見の戦いと 本堂ご寄付札について
鳥羽離宮内の「秋の山」は現存しております。一帯は鳥羽離宮公園となっており、「秋の山」には城南宮の宮司様が建立された鳥羽伏見の戦いの慰霊碑が立っております。このすぐ近くに、鴨川にかかっていた旧の小枝橋がありました。橋の東岸には戊辰戦争勃発の地の碑が建てられておりますが、これは小枝橋を渡ろうとする幕府軍に対して、城南宮の森から官軍側がアームストロング砲を発砲したのが始まりとされているからです。鳥羽での大砲の音を聞いて、伏見中心部での戦が開始されたようで鳥羽伏見の戦いとなっています。
官軍側の本陣は、本院の隣の安楽寿院様に置かれていたようです。詳しい資料がないのですが、当院も駐屯地になっていたと推測されます。
また、当院は幕末期までは、宮中の女官方が人事等の悩みの相談事に来寺されていたと伝え聞いております。そのような経緯もあってか、当院の本堂修復時に当時の要人方より御下賜がありました。
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